昭和57年9月10日 月次祭  入力者松本正宏


 ただ今の御祈念中に御心眼に大きな鮎の塩焼きというですかね、それを、見事な長いあの、合い皿に、笹の葉を引いてあしらって、もう本当に美味しいだろうというような御心眼を頂きましたが、これはどういう事かと皆さん感じられるでしょう。鮎の笹焼き。竹の笹を下にあしらって、ね、こう、鮎の塩焼きが、ですから、愛のささやきだと私は思いました。皆さん今日のお話は皆様に神様が愛をささやきなさると思うて、ささやきですから本気でいうならば心の耳を持って頂きませんと、聞き損うたり、頂きそこなうことになりますよね。
 今日、午後の奉仕をさせて頂いておる時にある教会の奥様という方からお電話を頂きました。ちょいちょい御願いのある時だけはいつも電話でお取次を願われるのですが。この頃から、この頃というても半年もなるでしょうが、(?)できたという事でしたが、あの、毎月こう支払いをしていかなならんとに、支払いが滞って出来なくなった。そこで、教会長先生という方がどっかお勤めにでられるようになった。けれども、そのお勤めの給料くらいでは間に合わない。いよいよ、先方、先方というか建築屋さんでしょうか、あの、少し払ってもらえんなら差し押さえをさせてもらうという通知があったというのです。先生こういう場合どういう生き方で、信心で受けていったらよいでしょうかと。ね。それで、まあ、お取次をさせて頂きましたが、今度遠方の教会ですから、何か、こちらに御用があるときに丁度十三日がそちらで信心、共励があるという話ですから、出来れば十三日の日に是非お参りをさせてもろうて、お話を頂きたいという事でございました。それでもうすぐ研修、三時の研修になりましたから、先生方にこういう今御届けがありましたが、あんた方はこういう場合どういうお取次をさせて頂いたらよいか、どういう風に教導していったらいいか。あなた方ならどうかというてまあ質問致しました。 
 皆さんならそういう時にどういう事になりましょうか。先だってからお道の何かご本の中に、この頃、目がこうして見えませから読んでもらうのですけれども、そこの、お教会がお屋敷を買われたりご建築があったり、まあ相当無理があって、そのためにはもうそれこそ死ぬ思いで教会長先生が、夜を徹して御祈念をなさったそうですね。そしてまあ、お繰り合わせを頂いて今日の何々、マルマル教会があるんだと。その教会の一つの語り草のようになっておるというお話を聞きました。ね。苦しまぎれに、私共昔、以前そんな時代がありました。それこそ夜を徹して御祈念をさせてもらう。ね。皆さんならどうでしょう。なるほどそれはね、そう御祈念をせずにはおれないのですけれども、神様を拝み倒すようにして、それでやっぱそこにおかげを頂かれてそれが、何十年後のお教会が先代の時にはこういう難儀があり、こういう苦労があって、こういうおかげを頂いたのだという語り草にはなろうけれども、これは合楽の信心から言うとそれでは、いけないように思いますですね。それで今日私前座っております先生方に一番前に竹内先生が座っておりますから、竹内先生あんた、どう思うのと。とにかく、何というても合楽においでられる事が先です。とにかく一遍参ってきなさいと言うことじゃないでしょうかと。そういうや私その電話を受けた時にですね、その、色々頂いた、あんまりぼんやりとでしたから、光という字を頂いたのです。ぼんやりと。光という字はこうやって、歩いておるような格好でしょうが。ははあ、そういや今電話の時に、光、光という事はおかげという事でしょうけれども、それがボンヤリであった。丁度先生と私の目で見る、色んなもののようにぼんやりであった。光。やっぱそうかもしれんな。まずは、合楽に来て直接お届けを頂いて、そこに、光になる、ぼんやりとした信心でも、分かってそこから道がついてくるかも知れん。次に坂根先生、坂根先生あんたはどう思うかというて申しました。どうぞ皆さんも私ならこう言う、こう思う、心の中に自問自答して、聞いて下さい。あなた方ならば、やっぱり何でしょうね、とにかく合楽にお参りしなさいがやっぱ一番手っ取り早いでしょうけれども私ならこうするというところをですね、分かると自分の信心の程度が分かります。
 にっちもさっちも出来ないどうにも出来ない。そういう時に一晩中神様の前にさかたんぼうって御祈念をするか、ご無理を申し上げるか、そしたら坂根先生がこういう事を言うんです。まずは我無力を知る事ですというのです。だと思いますとこういう。しかし今日の私は電話でお取次をさせて頂いた先生にまず、我無力を悟る事ですよ何てん言うたっちゃちょっとには分かるまいと思うたけれども、考えてみれば見るほどに、やはりそうだなあと思わせて頂きました。
 今朝からのご理解に神のおかげを知らぬから互い違いになると仰せられる。神の大恩を知れば無事達者に子孫も続き、身代も出来、ね。子孫繁盛家繁盛のおかげが受けられると今朝の御理解です。神のおかげを知らんからというのである。御願いをしておかげを頂く、はあこれは間違いなしにおかげだと分かることもやはりおかげですけれども、これなら誰でも分かる。ね。ここに奇跡的なおかげでも現れると、もういよいよ神様のおかげが分かるのだけれども、ね、神のおかげを知れば互い違いがなくなってくる。素晴らしいタイミングが生まれてくるというのですから、これはそんな事じゃないようです。どんな場合であっても必要な必要な時に必要な物が、または金が集まってくる。ね。素晴らしいタイミングの中におかげが、それには神のおかげをおかげと知らなければならない。そこにね、信心の稽古がいるのであり、ね、神様の思いが心が分からなければならない。今朝からも皆にその話を聞いて頂いたのですけれども、私は今日今朝から、ある教会の奥様と言うふうに言うたけれども、大牟田の白金教会というそこのご信者さんだそうです。今度の、教区だよりをいっぺんどおり読んでもらいまして、それを私は非常に感じたのです。その方が、書いておられます事の中に、まだ、難儀をしております時でした。子供が修学旅行というのです。ところが中々旅費すらも小遣いすらも尚更出来ないという難しい中に、御願いをして、まあ旅費のおかげを頂いた、またわずかばかりではあるけれども、小遣いが戻せる事が出来た。喜んで子供は修学旅行に立ちまして、帰って参りまして、お母さんに一つの紙包みを差し出して、お母さん、あんたが一番喜ぶお土産を買うてきたよというて差し出した。お母さん心の中で思うた。こういう窮屈な時に御土産てんなんてん買うてこんな。へんな事はいらんのにと思うたけれども、子供のその真心だから受けてそれを開いてみたら、ね、持たせてやった小遣いを一千も使わずに帰ってきたち。なるほどお母さんが一番喜ぶ。私は今日の研修の時にその事を私もふっと思い出しましてね、高等小学校の時に私は長崎佐世保の修学旅行に行った事がある。行ったのです。ね。その時に私は一千も使わずに帰ってきたことがありました。旅行から帰ったあくる日に、先生が色んな一人一人感想聞いたり小遣いいくら使ったかと聞かれ、その時分にゃ、十銭か、二十銭使うた人もおる、五十銭使った人も、一円も二円も使った子供があった。
 それは皆手を挙げるのですね。私だけがあげんのです。大坪お前手を上げんがどうしたかち言うてから先生が言われましたから、僕は一千も遣いませんでしたからち言うたら、そんなら言われんはずねと言った事を私ははっきり覚えておりますが、今日私の修行生にも申しました。ここでお金を使うまいともう本当に、あり難く使わんですむよと。時には出たい、時にはお茶のみでもいきたい。ね。時にパチンコでん行きたい。そげな思いがあっては合楽で本当の修行が出来んぞ。これは福岡に、福岡の平尾の教会長、康人先生が甘木で修行中、大学出の立派な先生です。やっぱりそういう修行をなさったらしいですね。ですからいつも黒衣の羽織りの紐というのはいつも黒帯びだった。羽織の紐一本買いませんという修行をなさったのです。それが出来るのです。例えばここでならばですね、何も買う事もいるまいが。石鹸がある、タオルがある、まあいうならば衣食住があるのだから、それこそ、歯磨きいっちょ、歯磨きなんてん買わんなあ塩でんよかろうもんと私が申した。と私の酒屋の小僧時代の話をした事でございますけれども、腹を決めれば出来るです。ね。問題は腹を決めない。いうならもの欲しそうにしてから、教会に修行しよりゃ、お金も使われん、お金もない、たまには一杯飲みにも行きたいといったような心ではすっきりとした修行はいわば、それでは今日言う、愛のささやきを聞き取る事が出来ない。
 ね。日田に、堀尾という大変御徳の高い先生がおられました。甘木の出社。第一の出社です。ご普請が出来た。ところが出来上がってしもうて御結界に座って気が付いた。こりゃちょいと、甘木が師匠のおられる教会に尻をむけて座る事になる。これは大変な失敗をしたと。もう本当に模様変をしよう立てなおそうかとさえ思うたとこれは先生から直接お話を聞いた事でした。神様にその事を心向けておられると、「はあそうであった。自分で何が出来るか、それこそ、師匠の祈りの中に今日の日田教会がある。師匠が後ろからこちを支えておってくれる、抱いておってくれるからこそ、このお取次ぎも出来るのだと思うたら、心が反対に嬉しゅうなって、ありがたくなって以来、日田の信心の根本は、障子一重がままならぬ人の身ぞという事だといわれております。自分では何一つ出来る事はない。神様のおかげを頂かなければ、師匠の祈りを頂かなければ、そういう、いわゆる、我無力であります。
 それで、今申します、佐田先生が申します、我無力ということがです、ね、これは私の修行中にこれはもう、商品も無くなった、タオルがまあ、こう一ケースか、二ダースか三ダースかあったでしょうか。どうしてもお金が欲しいのでそれを売りに歩きに行きました。もうまあ商売にかけては自身があった。直ぐ売れると思うた。大変雪の日でした。もう、自転車もその自分はなかった。破れた靴がこうやって口をあけておるような靴を履いてからでしたが、福博の町をそれこそ神様にお願いをしお伺いをしながら、しかも神様がその日に色々と教えて下さったから、右に行け左に行けここによれと言うて頂きますから、ね、そこに、よらせて頂くとそんならもらおうかという話しになるのです。ところが、いよいよお金を頂く時になって、はあ今日やっぱ止めておこうといったようなものが1日続きました。ね。もうそれこそ、靴の中は雪解けのあの、びちゃびちゃでした。足を洗うてご神前に出て、今日は結構な修行をさせて頂きました。神様の仰せ通り、右といや右、左といや左に参りましたけれども、一筋のタオルすら売る事が出来ませんでしたと、お礼お届けをさせて頂いておる時に私の心の中に、感じたことでした。はあ今までは、商売にかけては自信がある。人が一つ売る時には二つ売るだけの自信がある。ね。ところが今日はどうか、その一筋のタオルすらが売る事が出来なかったではないか。9分9厘出来たようにあっても、出来ない、皆壊れていく。してみると今までは神様のおかげを頂いておったのだけれども、商売だけは自分が自信がある、自分の腕で売っておったと思うておった間違いを悟らせてもらった。なるほど、自分では一筋のタオルも売る事が出来ないという心が開けてきた。ね。そこから我無力我無力と簡単に言うけれども、障子一重がままならぬ人の身という事を言うけれども、本当にその場に立ち至った時に、初めて翻然と心の中に今まで自分の力自分の知恵といったようなものを過信しておったと。どうでしょう。神様おかげをくださっておるのに神様のおかげとも思わずに、自分にこれだけは自信がある。これだけは私の力と思うておったところにおかげが互い違いになっておったという事が分かりますよね。
 本当にです、ね、いわゆる自分と言うものがどのような自分の正体を見た時です、実体を見て感じた時です、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんというそこからの修行であり、そこからの願いでなからなければならないという事であります。今度十三日にその先生が見えられましたらこの話しをしてあげよう。ね。そこにいわゆる神様の十全の働きを受ける事になりますですね。確かに我無力を知る事です。皆さんどうでしょう。こっからここまで、私、いや今日ね私自分で、バス代払うて自分の車で参って来たというところにいうならばおかげをおかげを知らないと言う事になるのです。神のおかげを知れば、ね、互い違いになる事はない。神のおかげをおかげと分かる事のなのです。ね。
 そこでです、ならお話を聞いたから一遍に分かると言うことではないけれども、それを実感として心の底から、我無力であると言う事をいわゆる分かるという事よりも、悟らせてもらうところから、いわば、見合の信心というでしょうか、一晩中神様の前にいうならば夜通し、夜を徹して祈るといったようなことをしなくてもよいと思うです。いわゆる神様の十全の働きを受ける事が出来るのですからそうでしょうが。神様があれがない、これがないあれが難儀な、ところを通って、ちゃんと身通し聞き通しなんですから。ね。ところが自分の心の中におかげをおかげと知らんから、お願いをして自分の都合のよい時だけをおかげと思うて、その反対の事になると、ね、おかげでないかのように思う。あれもおかげであった、これもおかげであったという事が分かるようになると、本当の信者と仰るように、願ったことが成就する、願った事が反対になる時もそれをおかげと自分の心にキャッチ出来れる信心。いわゆる合楽で言われる一切が神愛だと、一切神愛と言う事が分かってくる。ね。例えば売れんで1日、足を棒にして歩いて帰ってきても、今日は結構な修行をさせて頂いて有り難かったというところから、翻然として分からせて頂いたのは、商売はまあ、人後に落ちないね。商売だけなら、人には負けない。そうした自分の腕を過信した事が今日の難儀になっておる事を気付かせてもろうて、お詫びが出来、お願いが出来る。そこで日々です、私共が信心の稽古をさせて頂くということが、ね、先ほど白金教会のご信者さんではないですけれども、ね、お母さんが一番喜ぶ土産を買う手きたという事の信心になってこなければいけんのじゃないでしょうか。親の心が分からん。仕方も無いで(?)仕方もないというか、まあ、旅行の行ったのですから、そこの名物なら名物でも買ってきたといたしましょうか。丁度親が喜ぶでしょうか。親が一番願っておるもの、思うておるもの、それは親の心が分かるから、ね、お母さんが一番喜ぶお土産はこれだと子供が分かった。私共がいうなら、異句同音に割れます。神様に喜んでもらえるような信心をさせて頂きたいと。また、その白金の方が言うております。お願いをする、一生懸命お願いをしておかげを頂く。教会にご用でもあると昨日はたーとご無礼いたしました。もう、忙しゅうして出てこられんで済みませんち言うてから、惜しい惜しい、ここからがお徳を受ける信心なのにとその方は言っております。(?)信心も出来た方だと思いますね。おかげを頂く時には一生懸命お参りをしてそれこそ奇跡とも思われるようなおかげも頂いた。ね。お教会にご用があるから、と言われてもですその時丁度都合が悪うして、こげな風して用事があって、結局自分を中心にした生き方。こういう生き方は絶対神の声を聞き取る事や、囁きなどは尚更聞き取る事は出来ません。例えば忙しい用がそこにあったと致しましてでもです、神様の御用には変えられない。
 その時にやっぱり人は変人というし、人は馬鹿じゃなかろうか信心にぼうけておるというかも知れません。けれども、自分というものを中心にせずに神様中心の生き方というものを本気で頂かせて頂くときに、人は笑うかも知れません。また悪口を言われるかも分かりませんけれども、そこを貫いていくという生き方こそ、神様の心が分かった。それに応える信心とはそういう事だと思うです。白金教会のそのご信者がいうております。おかげは一生懸命参ってきて、おかげを頂いた。けれども、これからはお徳が受けられるというところを皆が粗末にする。ね。これではいよいよ神のおかげをおかげと分かる事は出来ない。神のおかげという事は、御願いをして、思うようになった時だけがおかげじゃないという事。それをお互い勉強、一切神愛という風にまあ勉強しておるわけですけれども、それを実感として頂けれることの為に、いよいよ我無力である、自分の正体をいよいよ見極めて神様のおかげを頂かなければ立ち行かんというそこから打ち立てられるところの信心。ね。どうにも出来ない。もうそれこそ、神様の前にいうならば全面降伏するほかにない。両手を上げるような状態になっておっても、まだ自分で何かあれこれと迷い、何かとそこにまた、人に頼ってみたりするような事では、いつまで経ってもおかげにならん。本気で我無力という事を分からせてもろうて、ね。
 神のおかげをおかげと十全のおかげを十全に私共が受け止められるようになって、初めて互い違いではない、素晴らしいタイミングの中におかげを受ける事が出来る。初めて神の大恩を知ることが出来る。あの時には苦しかった。あの時には辛い思いをしたけれども、あの辛いとか苦しかった、あの時こそ神様が私に愛の囁きをしてくださっておったんだ。以前に頂いたことがありましたが、難儀は神様のウインクだというのです。ね。それに応えられる微妙なところです。それに応えられるときにいうならばおかげにもなってまいりましょうが、神の大恩を知る事が出来る。話を聞いて神の大恩という事を聞けば誰でもすぐ分かる。一切が神様の御恩恵のものであるという事は分かるけれども、実感として神の大恩を大恩として分かるという。ね。その為にはそれに徹してみるのです。ね。甘木関係の御信者やら先生やらいうなら一切が天地の恩物として、恩物を大切にされた。それこそ先だってから亡くなられました、中村あつ子先生のお父さんが八十何歳で亡くなられましたが、あちらで甘木で修行中に頂かれた、それこそ枯葉枯れ枝一枚、一本でも天地の親神様の恩物ばいと厳しく教えられて依頼、一切の物を神様の恩物として頂かれた。それには枯葉枯れ枝一本一枚でもお粗末疎かに、なさらんという修行が出来て初めて実感として、神様の恩物という事が分かってくるのです。ここで言う事柄でもそうです。御事柄として受ける。その本当に徹底して御事柄という事を実感できた時に初めて神の大恩が分かるのじゃないでしょうか。神の大恩を知れば無事達者で子孫も続きと仰せられます。だから教祖様のこうした教えをです、私共が実験実証して教祖様は嘘を仰っておられないという事を明らかにしていくという私共は責任を感じなければなりません。教えにあるばってんそんなわけじゃいかんというて中途半端で例えばタイミングが崩れてもちぐはぐになっても、子に孫に伝わらなかっても、ね、神の大恩は一通りは分かった。神のおかげは一通り知っておるというようなことでは、そういうおかげの頂けれるところまでこう究明していかなければならない。その分かる手立てとしてまず、一つ我無力である。どういう難儀な問題、そういう難儀な問題時ほど本当は神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと。これは私が商売だけには自身があると思うておった。けれども、一筋のタオルすら売れなく一日歩いたけれども、売れなかったと言う時、初めて今までのは自分の過信であった。間違いであった。それを神様おとがめも無しにおかげも下さっておったけれども、ここにいたって初めて我無力である事を分からせてもろうて、その、我無力というそこを一つの基盤としてだから願わずにはおれないという事になる。ね。そして、願わずにはおれないのである。神のおかげが段々分かってくる。今まではおかげ、頂いた時におかげという頂きそこなうたら、おかげを頂ききらじゃったとこう言う。ね。その頂ききらじゃったそのことこそ、大体は神の囁きなのである。それを聞き取らせて頂いて、それに応える信心。親の心に応える。神様の思いに添い奉ろうとする信心はそこからしか生まれてこないと思います。
 ね。今日は皆さんにね、神の囁きを私が代弁したように思うのですが、皆さん神の囁きを聞き取る事が出来たでしょうか。ね。そこから初めて神の囁き。これはあんただけもう、(?)同じこと。これはあんただけにいいよるとばいというとが聞こえんふりをしておったのでは、いつまで経っても本当のことは分からん。そこから生まれてくる神様との交流いわゆる合楽世界という事になるのです。そこから限りなく生みなされてくるそれが、神のおかげを知らぬから互い違いになる。神のおかげを知ることになる。神の大恩を知れば無事達者で子孫も続くというおかげになってくるほどしの事柄を私共は頂いておるのだけれどもそこを私共は疎かにしたんでは、ね、本当のおかげに繋がらないということであります。
 いよいよ、十五年の記念祭がもうやがて一月、いわゆる、総会の話があっておりましたが、一月後が記念祭でございます。殆どの方が今日、はがきが皆行ったらしいですね。それがもう最近新しい方達ですが、自分たちが御用てんなんてんちゃ持っての、もう幹部の方達と思うておるところへあなたは今日、(?)はがきが昨日か何か行ってるじゃないですか、今日その御届けが沢山ありましたから。もうそれで何か心が生き生きとしてきて、はあ自分のようなものでもお役に使うて頂くだろうかというようなそれこそ、粗相の無いような御用が出来ますように御届けが一杯ございました。恐らく昨日頃いったんじゃろうの。今日そういう御届けがいっぱい多かったです。ですから、皆さんそういう御用もね、今、今日神様のいうなら、囁きを本当に聞かせて頂く思いで、ね、御用に当たられたら、神様も喜んでくださり、自分たちも喜べれる信心が育っていく事を思います。どうぞ一心発起して下さい。ね。十五年の記念祭を目指して一つ、昔の方はよく言われました。今度の御大祭で一徳受けようと。というそのまあ信心ですけれども、それには神様の御用をさせてもらう、その御用の後は自分が頂くといったような条件つきではなくて、無条件のね神様に喜んでさえもらえばという無条件の心で一つ御用にあたらせてもろうて、神様に喜んで頂く信心。喜んで頂く御用。ね。その喜びがまた返ってこないはずはないと思います。

                                     どうぞ